問題解決について


学校では“考える訓練”ができない
 何故、ものを考えないビジネスマンたちが多くなってきたのだろうか。 それには、さまざまな理由が考えられる。
 第一は、学校で 「考える」 訓練をやっていない からではないか、と思われる。
 考えてみると、わたしたちは、小学校から中学や高校、さらには大学まで、ながい間、実に、さまざまなことを学んできた。 そのおかげで、なんとか社会人としてヨチヨチ歩きができるようになったわけだ。 しかし、十数年間におよぶ学校教育のなかで、わたしたちは 「“考える”とは、どういうことなのか」 とか、 「なにを、どのように考えるべきなのか」 については、誰からも教わっていない のである。
 たしかに、 「人間は“考える葦”である」 という、あの有名なパスカルの言葉については教わったし、またよく知っている。 しかし、肝心の“考える”とは、どうすることをいうのか、考え方のABCについては、どの先生も不問に付しているのだ。 つまり、わたしたちは、人生を生きていく上で、いちばん大切な“考える技術”の基礎訓練を受けていないわけである。
 ためしに、学生時代の授業風景を思い出してみるとよい。 そこには、先生と生徒が 「お互いに“問答”を楽しみながら授業をすすめていく」 といった光景は、ふつう、見られない。 教師が一方的にしやべり、先徒は、それを一字一句、ノートに書きとめる。 そして時間がくると、先生は、先徒たちに向かって、 「なにか質問は?」 と型どおり尋ねる。 すると、生徒のほうは、これもハンで押したように 「ありません」 とか、“沈黙”で答える、といった具合なのだ。
 わたし自身の経験では、先生に質問する生徒は少なかったし、反対に、先生のほうから生徒に、あれこれ問いかけることも、殆どなかった。 つまり、学校教育では、 「問い」 は教えないで 「答え」 を覚えさせる、といった“考えずに学ぶ”といった、明治以来の方式がとられていたのである。
 これでは“考える”という知的活動に不可欠の“好奇心”を伸ばすとか、知的活動に必要な“探求心”を育てる、といった教育は、殆ど行なわれてこなかったといってよい。
 しかも、この“考えずに学ぶ”方式は、受験戦争が激しくなるにつれて、もっと徹底したものになってくる。 つまり、学習活動としては、たとえば、
( 1 ) 「考える」 ことよりも 「知る」 ことが多くなる
( 2 ) 「わかる」 ことよりも 「覚える」 ことが重視される
( 3 ) 「調べる」 ことよりも 「教わる」 ことが中心になる
といった傾向が強くなってくるのだ。
 先生は、生徒を一人でも多く“いい学校”に入れるために、一生懸命に 「答え」 を叩きこもうとする。 また、生徒のほうは“落ちこぼれ”にならないように、一つでも多く“正解”を覚えようとするのだ。
 こうした“考えずに学ぶ”という学習方式は、なにも中学や高校に限ったことではない、最高学府といわれる大学教育のなかにもみられるのだ。 そこでも“学問” ― 「問い、かつ学ぶ」 とか、 「“問い”を学ぶ」 といった知的活動の基礎訓練が、あまり行なわれていない。 大学教育というのは、学生の側からみると、
自分が“人生の目標”を探すこと
自分の取り組むべき“人生の課題”や“テーマ”を発見すること
その課題なりテーマなりを、自分の頭と手足を使って考えること
などにあると考えられる。
 具体的にいうと、
( 1 )なんのために生きるのか
( 2 )なにをめざして生きていくのか
( 3 )なにを人生の課題とするのか
といった“根源的な問い”を自ら課し、それを、先生や仲間を通して考えていくことだと考えているのだ。
 しかし、残念ながら、大学の実態は、そうした“知的訓練の場”にはなっていないようだ。 その理由は、一つには、大学の役割が 「学問のための機関」 から 「就職のための機関」 へと変わってきた ことだろう。 つまり、“いい会社”に就職するためには、“いい大学”に入学しなければならない、といった“学歴稼ぎ”の考えが普及したことだ。 そして、その結果、大学を“就職のための予備校”と考える人たちが増えたことなどによるのである。
 二つめは、学生の知的活動が“受験勉強”方式そのままになっている ことだろう。 学生は、長く、辛い受験勉強から解放されて、やっと“学問の自由”を手に入れながら、なにを、どうしたらよいのか戸惑っている。 というのも、たしかに、彼らは受験勉強のように、どのテキストと、どの参考書をみっちりやればよいか、といった指示された勉強には強いのだ。 しかし、卒業論文のように、自分で研究テーマを見つけ、自分で研究計画をたてて研究をすすめる、といったことになると、途端に困惑するのである。
 そこで、学生は、2年間のレジャーを楽しんだあと、3年生になると、再び就職のための受験勉強にもどっていくのだ。 このように、知的活動の基礎訓練を受けないまま社会に出ると、どうなるのかひと言でいうと、 「ものをよく知っているが、なにひとつできない人間」 というレッテルを貼られる ことになるのだ、たとえば、ひと頃、職場で問題になった 「指示待ち族」 などは、その代表的なものだろう。 つまり、
( 1 )いちいち指示しないと、なにもやれない
( 2 )一つ一つ教えないと、なにもできない
( 3 )自分で考えないで、すぐ答えをほしがる
といった態度を指しているのである。


“正答主義”には弊害がある
 学校教育の場で 「考える訓練」 をしていないのだから、 「仕事とはなにか」 ということがわからないのは、当然かもしれない。 なぜなら、 「仕事とは“問題解決の行為”である」 からだ。 つまり、仕事には、
問題を自分で発見する
問題を共通の課題に形成する
共通の課題をチームで解決する
といった具合に、問題の発見・形成・解決という一連の行為を指しているからだ。
 と、こんなことをいうと、学校の先生のなかには、 「いや、そんなことはない。 問題解決型の思考訓練は、数学の時間を通して、ちゃんとやっているよ」 と反論する人がいるかもしれない。 しかし、ややむずかしい言い方をすると、わたしたちが数学の時間に学んだことは“人間の三大思考法”と呼ばれているもののうちの、二つの思考法にすぎない。 つまり、
演輝的なものの考え方
帰納的なものの考え方
の二つについては、たしかに訓練を受けている。
 しかし、少なくとも“仕事”に不可欠の思考法である。
発想的なものの考え方
については、ほとんど教わっていないのではないだろうか。 たしかに 「論理的な思考」 は教わってはいても、 「創造的な思考」 の訓練は受けたことがない のである。
 もう少し“問題解決の訓練”に即していうと、こういうことになる。 同じ“問題解決訓練”とはいっても、学校教育では、
( 1 )“答え”のある問題が与えられる
( 2 )問題の解き方が決まっている
( 3 )例題が出される
( 4 )公式をあてはめると答えが出てくる
( 5 )かならず“正解”がある
いった形をとっている。
 これに対して、職場の問題解決=仕事というのは、
( 1 )自分で問題を見つける( 探す、つくる )
( 2 )問題の解き方を自分で考える
( 3 )どんなやり方がベターなのかを判断する
( 4 )たとえ公式にあてはめてみても答えが出るとはかぎらない
( 5 )異質の答えが複数出てくることが多い
といった特微かある。
 なかでも、学校と職場とで大きくちがう点は、 「問題」 そのものだろう。 学校では、問題というのは、先生が出題するとか、教科書や問題集にのっている、つまり、自分で“求める”よりも“与えられる”のが、ふつうだ。 しかし“職場”で“問題”という場合には、たとえば、
( 1 )現実のなかから、自分で探したり見つけたり、さらにはつくったりするものであること
( 2 )ほんとうの問題は、俗にいう 「○○問題」 といった形をしていないものであること
( 3 )どこに問題が潜んでいるのか、その所在がわからないものであること
( 4 )はたして“答え”が出てくるかどうかわからないものが多いこと
( 5 )解決法が見つかる問題であるかどうかわからないものが多いこと
などといった傾向があるのだ。
 いいかえると、職場でいう“問題”には、ふつう、“正解”がない。 だから、“考える”とはいっても、たとえば 「方程式を使って代数を解く」 とか、あるいは 「辞書を引いて英語や古文を読む」 といったぐあいにはいかない。
 ましてや現在、学校教育の主流を占めつつある 「正解主義」 や 「暗記主義」 、それに 「得点主義」 などでは、 「考える」 訓練にはなりにくい のである。


問題解決能力を身につけることが先決
 考えないビジネスマンが増えたのは、なにも学校教育のせいだけではない。 その第二の理由は、ビジネスマン自身にあるし、企業の側にある、ということである。
 ちなみに、企業における“仕事能力”の教育訓練をみると、“会社のための仕事能力”の開発、に重点がおかれている。 企業の研修だから、もちろん、会社側の能力開発であっていいわけだ。 しかし、その半面、せっかく時間と費用をかけて仕事の能力開発をやっても、 「仕事とは自己実現の行為である」 という視点が抜け落ちている ために、なかなか社員の身につかないのだ。 訓練を受ける側にすれば、同じ“仕事の能力開発”とはいっても、それは、あくまでも“会社のためのもの”であって、“自分のためのもの”ではない、と考えるからだろう。
 いいかえると、同じ“仕事の能力開発”といっても、企業の研修では、たとえば、
( 1 )問題解決の能力を身につけることが自己実現につながることを教えていないこと
( 2 )問題解決を、たんなる“技法”としてしか教えていないこと
( 3 )問題解決の手法に重点をおくあまり、問題発見の技術について教えていないこと
などといった欠点がみられるのである。
 しかも、研修を受けるビジネスマン側は、まえに述べたように、学生時代に、
自分で“人生の目標”を探る
自分の“取り組むべき課題“をつくる
自分の頭と手足を使って考える
といった、人生を生きていく上で、もっとも大切な“考える“習慣が身についていない。 だから、せっかくオカネと時間と労力をかけて社員を教育し訓練しても、
( 1 )一般社員は、仕事の基本を身につけていないので、ひとりで仕事ができない
( 2 )管理者は“リーダーシップ”をとれても、“マネジャーシップ”が発揮できない
( 3 )中高年者は、“自分の仕事”しかやってこなかったので、定年後の不安を覚える
といったマイナス面が出てくるのである。
 わたしは 「仕事とは“自己実現の行為”である」 と考えている。 あるいは 「“自己表現の行為”である」 といいかえてもよいだろう。 が、実際の話、仕事には、
「食べるために働く」 といった“手段”としての労働
「勤めとして働く」 といった“義務”としての労働
といった側面があることは、たしかだ。
 そうした労働の現実があることは、十分に認めている。 しかし、 「人間は、なんのために働く」 のか、 「なぜ、人間は働くことをやめないのか」 といった根源的な問いに立ち返って考えたとき、
「自分らしい生き方をするために働く」 といった“目的”としての労働
といった立場をとりたいのである。
 また、わたしは 「仕事とは“人生の活動”である」 とも考えている。 だから、仕事というものは、
( 1 )人間だれしもやるものである
( 2 )だれでもできるものである
( 3 )生きているかぎりやるものである
と思っている。 それは 「会社をやめたら、仕事がなくなる」 といったものではない。 たしかに定年退職すると、サラリーマン時代ほどの収入は得られないかもしれない。 しかし、それは“オカネになる仕事”がないだけであって、仕事そのものが、この世にないわけではないのである。
 ところが、企業は、仕事を“技術”として教えこもうとし、また、社員は仕事を“技術”として学ぼうという傾向が強くなってきた。 その結果、若いサラリーマンの間では 「仕事は仕事、遊びは遊び」 といった考えが、また、中堅サラリーマンの間では 「仕事は仕事、暮しは暮し」 といった考えが定着してしまったのである。
 しかし、言わせてもらえば、“仕事”も“遊び”も、そして“暮し”も、それは“人生の活動”だ。 人生の活動である以上、“仕事”にも“遊び”にも、そして“暮し”にも共通の能力が求められているはずである。 では、その共通の能力とは、いったい、なにか。 それは、 「問題解決の能力」 ではないかと考えているのだ。 つまり、自分らしい人生を生きていこうとする場合、そこには 「問題を発見し、それを解決していく」 という能力が、どうしても不可欠になってくるのである。
 とくに、“お手本のない時代”を生きていくためには、どうしても“問題解決能力”を身につけることが、当面の課題ではないだろうか。 なぜなら、お手本のない時代には、お互いが知識と経験を持ち寄って、みんなで“知恵”を生みだしていかなければならないからである。 また、この問題解決能力こそが、人生を生きていくための武器でもあるからである。
 そんなわけで、問題解決能力は、単なる“仕事の能力”とか、“仕事の技術”としてだけ考えずに、むしろ、わたしたちが、自分らしい人生を生きていくための、いわば “知恵づくりの道具だて” として考えていくべき である。



“学校型”思考法からの脱皮

1. 学校と職場の違いを知る

初めに“実践”ありき

   ところで、 「仕事が“問題解決の行為”である」 ことを知るには、職場では 「どんなものの考え方が求められているか」 とか、 「どんな行動の仕方が期待されているのか」 をハッキリさせることだ。 というのは、仕事の背景にある、ものの見方や考え方を理解しないかぎり、せっかく学校で身につけた“問題解決の能力”も生かせないからである。
 そこで、まず“学校型”のものの見方・考え方と、“職場型”のものの見方・考え方との違いがどこにあるのか、とりあえず【表】を見ながら説明していくことにする。 もちろん、学校型の思考法と職場型の思考法との間には共通点があるが、ここでは“おさらい”の意味もあって、あえて“違いの面”をあげることにする。
【表】 学校と職場の考え方の違い
No.学校型の思考職場型の思考
1 「である」 ことが前提
( = 「Be」 型の思考 )
「をする」 ことが前提
( = 「Do」 型の思考 )
2 「とは、何か」
( = What to be )
「何を、するのか」
( = What to do )
3 「である」 のは、どうしてか
( = Why to be )
「をする」 には、どうしたらよいか
( = How to do )
4 「なぜそうなるのか」
( = 「因果」 を追求 )
「をする」 と、どうなるか
( = 「成果」 を追求 )
5なにが、どうなるか
( = 傍観者 )
なにを、どうするか
( = 当事者 )
6問題が与えられる問題を探す、見つける、つくる
7答えが1つしかない
( 正解や模範解答がある )
答えが複数ある
( 正解がないのがふつう )
8決まった解き方がある新しい解決法を考える
9どんなやり方が正しいかどのやり方がベターか
10 「正解」 を求める
( = 「正しい」 かどうか )
「成果」 を求める
( = 「プラス」 かどうか )
11ひとりで問題を解く
( = 「個人」 が中心 )
みんなで問題を解決する
( = 「集団」 が中心 )
12自分のためにする
( = 利己 )
みんなのためにする
( = 利他 )
13判断の基準が変わらない
( = 「絶対」 )
「状況」 によって判断が変わる
( = 「相対」 )
14どれくらい、かかったか
( = 「費用」 志向 )
どれくらい、かけるか
( = 「利益」 志向 )
15どの程度、わかったか
( = 成績・点数 )
どの程度、やれたか
( = 実績・金額 )
16 「わかる人」 を重視
( = 理解力・知識 )
「できる人」 を重視
( = 実行力・経験 )
17どの程度、知ってるか
( = 「インプット」 型の知識 )
どの程度、使えるか
( = 「アウトプット」 型の知識 )
18どの程度、覚えられるか
( = 記憶力 )
どの程度、考えられるか
( = 思考力 )
19どの程度、わかるか
( = 「カタチ」 がわかる )
どの程度、できるか
( = 「カタチ」 をつくる )
20 「知識人間」 が求められる
( = 頭は 「知識の倉庫」 )
「発想人間」 が求められる
( = 頭は 「知恵の工場」 )
21 「批判力のある人」 を重視
( = 「否定」 を前提 )
「創造力のある人」 を重視
( = 「肯定」 を前提 )
22ものごとの 「マイナス」 面に着眼
( = 「否定」 のための批判 )
ものごとの 「プラス」 面に着眼
( = 「肯定」 のための批判 )
23ものごとの 「限界」 を追求ものごとの 「可能性」 を追求
24 「反対意見」 をいう
( = 「解釈」 を重視 )
「代替案」 を出す
( = 「事実」 を重視 )
25 「できない」 理由を考える
( = 「だから、ダメ」 )
「できる」 方法を考える
( = 「だから、やれる」 )

 第一は、職場では 「なにを、どうするのか」 ということが、いつも問われている ことである。
 学校は“教育の場”だから、どちらかといえば 「○○とはなにか」 とか 「なにがどうであるのか」 といったことを学ぶ。 あるいは 「○○であるのは、なぜか」 といったことを教わる。 ややむずかしい言い方をすると、学校では 「ものごとの因果関係を追求する」 ことが、教育の主な目的になっている。
 だからあなた自身、学生時代に身につけたのは、この 「○○とはなにか」 とか、あるいは 「○○であるのは、なぜか」 といった″問い″に対する。 答え″だ。 それを、ふつうは、。 知識″の形で知り、。 経験″を通して、覚えてきたはずだ。 そして、その知識は、小学校から中学校へ、さらに高校や大学にすすむにつれて、体系だっていったはずである。
 ところが、職場では″因果関係の追求”もさることながら、″成果の追求”が重視される。 つまり、 「モノをつくる」 とか 「考えをカタチにする」 とか、″成果″をあげることが求められるわけである。
 別な言い方をすると、学校では、
( 1 ) 「なにが、どうであるのか」 ( = What to be )
( 2 ) 「なぜ、そうなるのか」 ( = Why to be )
といった、ものの見方・考え方が中心になってくる。
 それに対して、職場では、
( 1 ) 「なにを、どうするのか」 ( = What to do )
( 2 ) 「どんなやり方をするのか」 ( = How to do )
といった、ものの見方・考え方が中心になってくるのである。
 もちろん、職場でも、学校と同じように 「なにが、どうであるのか」 とか、あるいは 「なぜ、そうなるのか」 を追求することがある。 たとえば、なにか問題が起こった場合、 「その問題とはなにか」 とか、 「なぜ、その問題が起きたのか」 といったことを考える。 しかし、日常、職場でやる仕事というのは、問題を定義したり、その原因や背景を分析することで終わるわけではない。 まえにもふれたように、出てきた問題を解決することが求められるわけだ。 つまり、問題を発見し、解決したときに初めて“ひと仕事”が終わったことになるわけなのである。
 このように学校では、すべて 「○○である」 ことを前提にして、ものごとを考えていく。 そして 「OOである」 ことを 「知る」 とか 「わかる」 ことに重点がおかれる。 それに対して、職場では、すべて 「○○をする」 ことを前提にして、ものごとを考えていく。 そして 「○○をする」 には 「どうしたらよいのか」 ということに重点がおかれる。 だから、 「知る」 とか 「わかる」 ことよりも、 「覚えるとか、できる」 ことが重視されるのである。


職場では“問題”をつくる

 もちろん、学校でも、職場でいう“問題解決型”の思考訓練はやっている。 たとえば、論理的にものごとを考える訓練としては、数学の時間が、その代表的なものだろう。 みなさんのなかには 「数学」 ということばを聞いただけで“頭が痛い”などという人がいるかもしれない。 ややむずかしい言い方をすると、数学の時間では、わたしたち人間の三大思考法と呼ばれているもののうち、とくに、
演禅的なものの見方・考え方
帰納的なものの見方・考え方
の訓練をしたわけだ。
「演禅法」 というと、なにかむずかしく聞こえるかもしれないが、ひとくちにいうと、 「ある命題を認めたとき、そこから必ず成り立つ他の命題を引き出す思考法」 だ。 たとえば 「すべての人間は死ぬ」 という一般命題があるとき、そこから 「Aさんは人間である」 だから 「Aさんは死ぬ」 といった個別命題を導くのは、この演禅的なものの考え方だ。
 これに対して 「帰納法」 というのは、ひとことでいえば 「演禅法」 とは反対に、 「個別的な事柄の集合から一般命題を引き出す思考法」 ということができる。 たとえば、これまでの人間の歴史のなかで、Aさん、Bさん、Cさん……といった人たちが死んだ、といった事実のなかから、 「すべての人間は死ぬ」 といった一般命題を導き出すのは、この帰納的なものの考え方である。
 説明の仕方がむずかしくなったようだが、この“演禅法”も“帰納法”も、実は、わたしたちが、日頃、無意識のうちに使っている考え方なのだ。 ところが、学校で身につけた“問題解決型”の考え方と、職場で求められる“問題解決型”の思考とは、ことばは同じでも、少しちがうのだ。
 まえに述べたことを、あえて再説してみると、両者の違いは、つぎのようになる。
 学校では、同じ“問題解決”でも、たとえば、
( 1 )あらかじめ問題が与えられている
( 2 )問題の解き方が決まっている
( 3 )どんなやり方が正しいかがわかる
( 4 )公式をあてはめると、答えが出る
( 5 )“正解”が一つしかない
などといった特微かある。
 これに対して、同じ“問題解決”でも、職場の場合には、たとえば、
( 1 )自分で問題をつくらなければならない
( 2 )問題の解き方を新しく自分で考える
( 3 )どんなやり方がベターかを判断する
( 4 )公式をあてはめても答えが出るとはかぎらない
( 5 )答えが複数でてくることが多い
などといった特徴がある。
 これだけの説明ではわかりにくいので、ちょっと補足しておく。 職場でいう仕事とは 「問題解決の行為」 だ。
 たしかに“問題解決型”のものの考え方をするという点では、学校で勉強する“数学”も職場で求められる“仕事”もよく似ている。 しかし、職場でいう“問題解決型”の思考の場合、学校とはちがって、あらかじめ解決すべき問題が 「与えられる」 わけではない。 こちらから 「求める」 ことが要求されているのだ。
 もっとも、新人のころは、なにが自分の仕事なのかわからないので、上司が問題を与えてくれる。 しかし、一人前のビジネスマンになると、自分で解決すべき問題を 「探す」 とか 「見つける」 とか、あるいは 「つくる」 ことができなくてはならない。 ところが、わたしたちは、学生時代、自分で 「問題をつくる」 といった訓練を受けたことなど、あまりないはずだ。
 たとえば、“問題解決型”のものの考え方を訓練する場である数学の時間に、 「自分で問題をつくり、その問題を解く」 といった経験をしたことがあっただろうか。 おそらく大学で数学でも専攻しないかぎり、そうした 「問題をつくる」 などといったことはやったことがないはずである。
 学校型の問題解決と職場型の問題解決との違いで、もう一つ注意してほしいのは、職場の場合には 「かならず答えがあるとはかぎらない」 という点だ。 学校の場合には、同じ問題でも 「かならず答えのある問題」 だし、それも 「答えが一つしかない」 ことが多いのだ。 だから、その問題を解くための公式をあてはめてみると、計算のやり方をまちがえないかぎり“正解”が出てくる仕組みになっているのである。
 しかし、職場の問題にかぎらず、およそ人生には 「答えのない問題」 が多いのだ。 たとえ答えがあったとしても、 「答えは複数である」 ことが、ふつうなのである。 その上、その問題の解き方にいたっては、決った公式があるわけではない。 先輩たちのやり方を参考にしながら、自分なりの解決法をつくり出していかなければならないのである。


2. つねに“可能性”を追求する

“批判”よりも“代替案”を出す

 ところで、学校型のものの考え方と職場型のものの考え方との、第二の違いは、職場では 「つねに可能性を求める」 ことが要求されている ことである。
 学校は教育の場だから、 「批判的なものの見方・考え方」 を訓練する。 ものごとを正しく考えるためには、どうしても“批判の精神”を養わなければならない。 とくに真理を追求しようという場合には 「いっさいの偏見を除去して、虚心坦懐に、ものごとを判断しよう」 といった心構えが必要だからである。 だから、中学から高校、さらには大学へと学歴が高くなるにつれて、こうした“批判力”の訓練を受けることになるのである。
 こうした“批判の精神”は、文明を発展させ、文化を高めていくためには不可欠のものだ。 そのことは、これまでの人類の歴史をふりかえってみれば、よくわかる。 「批判の精神のないところに人類の進歩はありえない」 ということを如実に物語っているからなのである。
 ところが、困ったことに、ビジネスマンのなかには、この“批判の精神”をとりちがえている人たちが少なくないのだ。
 ためしに、あなたの職場のまわりを、ちょっと見渡してみるとよい。 どこの職場にも、なにごとに対しても“反対意見”をいいたがる人が、かならず一人や二人はいるものだ。 たとえば、会議や打合せの場で、だれかがなにかを発言すると、かならずといってよいほど、その意見に対して、ひと言、口をはさみたがる。 たとえば、ふたことめには、
( 1 )それは理論的にいうと、おかしい
( 2 )そんなことは理論上、絶対にありえない
( 3 )現実はそうかもしれないが、しかし、理論的には……
などと“否定的な意見”をいいたがる人が、その代表的なものだろう。 どちらかといえば 「現実よりも理論を重視する」 人たちのことである。
 もちろん、こうした人たちは、別に相手に対して“悪意”があって反対意見をいっているわけではないのだろう。 また、“意地悪”をするために反論しているわけではないのかもしれない。 しかし、受けとり方によっては“あげ足とり”とか、“アラ探し”のために、なにかひとこといっているとしか考えられないことが多いのである。
 こうした人たちのことを、職場によっては 「社内評論家」 とか 「一言居士」 とかあるいは 「カラミスト」 ( 人にからむのが好き )などと呼んでいるようだ。 だから、彼らが会議の席上で発言すると、たいていの出席者が 「あぁ~あ、また、いつものクセが始まったか!」 とマユをひそめてしまうのだ。
 この種の“社内評論家”に共通にみられるのは、たとえば、
( 1 )ものごとを、すべて“ネガティブ”にとらえる
( 2 )ものごとの持つ“マイナス面”だけに目をつける
( 3 )ものごとの“可能性”よりも“限界”を指摘したがる
などといった傾向が強いことである。
 とはいっても、別に 「批判の精神など持つな」 といっているのではない。 それどころか、その反対に、むしろ“批判の精神”を大いに持ったほうがいい、と思っているくらいなのだ。 ただし、 「反対のための反対」 をするとか、 「否定のための否定」 をするといったことは、少なくともビジネスの場では許されることではないはずである。
 ほんとうの“批判の精神”というものは、 「批判すべきものは、きちんと批判をする」 とか、 「そのなかから受けとるものは受けとる」 とか、あるいは 「相手を批判するときには、かならず“代案”を出せ」 ということである


「できない理由」 を探すよりも 「できる方法」 を考える

 話しが、やや理屈っぽくなってきたので、具体例をあげてみよう。
 話しは旧聞に属するが、昭和39年の 「東京オリンピック」 のとき、こんな話しがマスコミの話題になったことがある。 その当時、オリンピックの主催国である日本でも、一回でも多く国旗をあげ、一つでも多く金メダルをとることが、わたしたち国民の願いみたいなものだった。 そのためには、個人競技よりも団体競技のほうに力を入れたほうが得策である。
 かといって、団体競技なら、どんな種目でもいいとはいえない。 優勝する可能性のある競技でなければならないわけだ。 その当時、優勝のチャンスがある団体競技の一つに女子のバレーボールがあった。 つまり、日本の女子バレーボールが、金メダル候補の最短距離にあったわけだ。 ところが、その当時、日本にとって強敵とされていたのは、今日とちかって、ソビエトだった。 ソビエトチームを倒さないかぎり、日本チームの優勝の可能性はなかったのである。
 ところが、日本とソビエトとのチームカを比べてみると、どうしてもソビエトチームのほうが一枚上だった。 それは、わたしたち素人の目にもあきらかだったのだ。 その理由の一つに、日本チームの選手に比べて、ソビエトチームの選手のほうが、平均身長ではるかに上回っていたことがあったのだ。 正確な数字は覚えていないが、ソビエトの選手のほうが背が高かったことは事実だった。
 そんなところから、マスコミや一部のバレーボール関係者の間では、日本女子バレーボールチームの優勝について悲観的な見方をする人たちが多かった。 「日本の選手はソビエトの選手に比べて背が低い。 だから、日本チームは勝てない」 といった考え方が支配的だったのである。
 しかし、その当時、日紡貝塚チーム( いまのニチボー )の監督だった故大松博文さんだけは、そうした“悲観説”をとらなかった。 たしかに、日本の女子選手が、ソビエトの選手に比べて身長の点で劣っていることは、大松さんも“事実”として認めていた。 しかし、大松さんは 「日本の選手は背が低い。 だから負ける」 とは考えなかった。 それどころか、反対に 「日本の選手は背が低い。 けれども勝つ方法がなにかあるのではないか」 と、発想を逆転させたのである。
 そして苦心の末に編み出されたのが、あの 「回転レシーブ」 と呼ばれる“秘密兵器”だったのだ。 いまでこそ、どこの国の女子選手でも回転レシーブをやっている。 しかし、その当時は、日本女子チームの“お家芸”だったのである。 大松さんが書かれた本を読んでみると、身長の高いチームに勝つためには、とにかく打たれても打たれても球を拾いあげる。 そうすれば、かならず攻めるチャンスが出てくるはずだ、ということで、あの独創的な方法を考え出したのだそうである。
 もちろん、回転レシーブだけで、日本チームが優勝したわけではない。 “鬼の大松”といわれたくらい、きびしい練習に耐えてきた選手たちの努力に負うところが大きかったことを見逃してはならない。 が、ここで回転レシーブを例に出したのはほかでもない。 ビジネスの社会では 「できない理由を正当化するよりも、できる可能性を考えることのほうが大切である」 ことをいいたかった からなのだ。
 もし、あのとき、大松さんが、評論家や世論と同じように、 「日本の選手は背が低い。 だから負ける」 と考えていたら、はたしてソビエトに勝つことができただろうか。 また、もし 「背が低いから、負ける」 と頭から決めつけてしまうと、その解決策は限られてくるにちがいない。 たとえば 「背の高い女子選手を全国から集めてチームをつくる」 とか、 「選手の身長を機械か薬で高くする」 とか、あるいは 「日本女性の背が外国の女性なみに伸びるのを待つ」 といった、現実はなれした解決策しか出てこなかったかもしれないのである。
 大松さんが、立派だったのは、一つには、 「背が低いから負ける」 といった、学校式の“因果追求型”の思考法をとらなかったこと。 反対に、 「背が低いけれども勝つ可能性がある」 といった、職場式の“成果追求型”の思考法をとったことだ。
 第二には、 「背が低い」 という事実を“ネガティブ”ではなく、“ポジティブ”に考えたことだ。 これは、推測だが、大松さんは、おそらく 「胴長で短足」 ( 失礼 )という日本女性の特徴を、なんとかプラスに変えられないのかと考えたのではないだろうか。 回転レシーブは、足の長い外国の女性よりも日本女性のほうに有利だからである。
 「与えられた条件のなかで、可能性を追求していく」 といった、職場型のものの見方・考え方のお手本みたいな話ではなかろうか。


3. 判断の基準は“ベター”

“絶対”よりも“ベターの感覚”で

 ところで、学校型のものの考え方と職場型のものの考え方との 第三の違いは、職場では 「どれがベターであるのか」 といった判断の仕方が求められている ことである。
「べきでない」 と意見をいっているのである。
 職場の会議は、学校のゼミではない。 そこでは、ものごとの“正・誤”や“善・悪”を討論しているわけではない。 ましてや相手の意見を否定するために議論しているのでもない。 “適切な成果”を得るためには、 「どの方法がより有効であるのか」 とか、 「もっといい方法がないかどうか」 をめぐって議論をしているわけである。
 だから、まえにも指摘しておいたように、相手が提出した案を否定する前に、自分なりの代案を出すことが大切なのだ。 そして、いくつかの案が出そろったところで、 「どの案が企業にとって、よりプラスであるのか」 とか、 「どの案が企業にとって、よりマイナスなのか」 といったぐあいに判断していくのだ。 その意味では、職場では、
「なにをなすべきか」 の“What型”の思考ではなく、
「どれがよりよいか」 の“Which型”の思考が要求されている。
といえるのである。


“動機の純粋さ”よりも“結果の有効さ”が問われる

 このように、学校と職場とでは、かなりちがったものの見方・考え方をしている。 いまここで 簡単に整理してみると、  
なにをするのか( = What to do )
どれをやるのか( =Which to do )
どのようにやるのか( =How to do )
といった考え方が求められていることになる。
 ところが、学校型のものの考え方と職場型のものの考え方の違いで、最後に、どうしてもいっておかなければならないことがある。 それは、職場では、いっも 「それをやると、いくらもうかるのか」 ( How much )といった判断の仕方が求められていることだ。 つまり、オカネが、いつも問題にされていることである。
 たしかに、学校でもオカネを問題にすることはある。 しかし、それは、たとえば 「いくらかかるのか」 といった“費用”だけを云々することが多いのだ。 もっとも、学校でも、たとえば 「運動会でのバザーの売上げはいくらになったか」 といった形で、“利益”を問題にすることはある。 しかし、それは“バザーをやった結果”の話であって、職場のように“売上げそのものを目的にする”ことはない。
 というのも、ビジネスの活動は、学校とは違って、“適正な利潤を追求”することを第一主義に掲げている からだ。 学校は、もともと“教育の場”だから“非営利的な活動”であってよい。 しかし、職場は“営利的な活動の場”だ。 適正な利潤の追求なくして、企業の存続はありえない のだから、職場でも学校と同じように 「いくらかかるのか」 といったぐあいに“費用”を云々することがある。 しかし、それは 「いくらもうかるためなのか」 といった“利益”を念頭においてのことなのである。
 なぜ、こんなにあたりまえのことを持ち出したのか。 「企業は利潤の追求を第一の目的としている」 などというと、とくに新人のなかには生理的に反発する人がいるからだ。 ときには 「カネもうけ=悪」 とか 「企業=悪」 といった短絡的な考え方をする新人を見かけることもあるのだ。
 そんな人に、ビジネスの世界でいう“利潤の追求”とはどんなことか説明するのは、たいへん難しい。 そんな人に、いくら経済学や会計学のABCを持ち出して利潤の説明をしても、おそらく耳を貸してくれないかもしれない。 そこで、 「ビジネス活動とはどんなものか」 ということに関連させながら、こんな説明の仕方をすることにしている。
 いま、たとえば 「100円」 で仕入れた品物を、かりに 「150円」 で売ることに決めるとする( 実は、この150円の定価さえ企業が勝手に決めるわけにはいかないことは、みなさんなら先刻ご承知のことだ )。 ところが、その商品が、どういうわけか定価の150円では売れない。 そこで、やむなく 「120円」 に値下げをしたところ売れたとする。
 この場合、学校型のものの考え方でいくと、
    「売価」 - 「仕入原価」 = 「利益」
ということなので、実際には、
    「120円」 - 「100円」 = 「20円」 ということになる。 つまり、 「100円」 で仕入れたものが 「120円」 で売れたわけだから、
    「20円のプラス」 ということになる。
 しかし、この学校型の“利益の方程式”は、ビジネスの世界では通用しないのだ。 というのは、もともと 「150円」 で売ると決めたものが、たまたま 「120円」 でしか売れなかったのだ。
だから、この場合の計算式は、学校式の、
  「120円」 - 「100円」 = 「20円の得」
とはならない。 反対に、
  「120円」 - 「150円」 = 「30円の損」
ということになるわけである。
 いいかえると、前者の学校流の計算式は、実はむかしの。 “商い”の世界では通用するかもしれない。 しかし、少なくとも現代のビジネスの世界では成り立たない考え方といえる。 というのは、ビジネスの世界では、もののもつ価値というものが、投下された 「オカネ」 と 「時間」 と 「労力」 とによって、こまかく計算されているからだ。 もちろん、実際の価格は、こんな単純な計算式で決まるわけではないのだが。
 こうしてみると、職場型のものの見方・考え方には、“オトナのそろばん”が潜んでいることがわかる。 つまり、
( 1 )現状を肯定して考えること
( 2 )与えられた条件のなかで可能性を求めること
( 3 )つねに結果の有効さを問うこと
などといった考え方があるわけなのである。


仕事は“問題解決”の行為

1. 仕事の基本を身につける

“問題”がわからないビジネスマン

 「あなたの職場で、いま解決しなければな らない問題には、どんなものがありますか。 だれでも結構ですから教えてください」 とたずねて  みる。
 ところが、驚いたことに、たいてい、 「さあ、わかりませんネ」 と答える社員が多いのだ。 これは、なにも新入社員の話ではない。 中堅社員や、ときには主任クラスや係長さんでも、ちゃんと答えられない人が少なくないのだ。 別に 「あの会社では……」 と質問したのではない。 「あなたの職場では……」 とたずねてみただけなのだ。 もっとも、 「これこれこういう問題はありませんか」 と具体的にたずねるべきかもしれないが。
 そこで、ちょっと意地悪のようだが、もう一度、 「では、あなたの職場には、ぜんぜん問題が ないのですネ?」 と重ねて質問してみる。 ときには、 「問題のない職場でいいですネ。 会社に来ても、することがなくて、毎日、困るのではないですか」 などと、ちょっぴり皮肉をいってみたりすることもあるのだ。
 そこまでいうと、たいてい、しばらく考えこんだあと、だれかが口火を切る。 しかし、返ってくる返事は、期待に反して、 「いやあ、いまのところ、。 これっ″といった問題などなさそうですネ」 と、まるで他人事のような答え方をすることが多いのだ。 これでは、まるで放漫経営で倒産した会社の社長が、記者会見の席上でよくやる答弁みたいなものだ。 城山三郎さんの小説の題名ではないが、これでは 「当社、別状なし」 を地でいくようなものである。
 たしかに、外部の人間に、“会社の恥”をさらしたくないという気持はわからないではない。 しかし、それにしても、 「当社、別状なし」 という答え方は、どう考えてもおかしい。 なぜなら、この世のなかで、およそ“問題のない会社”などあろうはずがないからだ。 さいわい、いまのところ問題がないとしても、近い将来、問題が起こらないという保証など、どこにもないのである。
 もし、その会社に問題がないといっても、それは、 「ほんとうに問題がない」 のではない。 「問題を感じない社員がいるだけにすぎない」 のである。
 このように 「いまのところ、これといった問題などありませんなあ」 などとシヤアシヤアと答える中堅社員たちに出合ったりすると、ときどきハラが立ってくる。 そして、 「よくそんなことで給料がもらえるなあ」 とか、 「そんな社員にも高給を払える会社っていいなあ」 と思いたくなるのだ。 とはいっても、別に“ヒガミ”や“ネタミ”でいっているのではない。 ちゃんと、ワケがあってのことなのである。
 ふつう、 「仕事」 と呼んでいるものは、つきつめていうと 「問題解決の行為」 である。 ちょっとむずかしい言い方をすれば、 「仕事」 というのは、大別すると、

取り組むべき問題を発見する
それを共通の課題に形成する
その課題をチームで解決する
といった、一連の営みを指している。
 ついでにいうと、企業であれ、役所であれ、あるいは団体であれ、およそ 「組織」 と呼ばれるものは、 「問題解決のためのシステム」 である、といってよいであろう。 つまり、自然や社会など、わたしたちを取り巻く環境で起こるさまざまな問題をいち早く発見し、それを国民や住民、あるいは消費者に代わって解決しているのが組織というわけである。 しかし、そうした類いの問題は複雑で、とても一人の力では解決することができない。 そこで、 「組織」 というものを考案し、みんなの力を結集させて解決していこうというわけである。
 こういうふうに考えてくると、この“問題解決のためのシステム”( 組織 )を構成している人たち ― つまり社員や職員には、とうぜん、“問題解決の能力”が求められているものだと考えられる。 なのに、 「自分たちが、いま取り組むべき問題はなになのか」 さえわからないようでは、給料をもらう資格がないのではないか、といいたくなるのである。
 それというのも、現代では、 「賃金」 というものは 「考え賃」 ではないかと思うからだ。 たしかに、農業時代には、労働の形態からいっても 「労賃」 や 「手間代」 にちかいものだった。 また、工業時代になると、労働時間を基準に賃金が支払われることもあって、 「拘束代」 といってもよいようなものだった。 しかし、情報時代になると、賃金は、“手間賃”でもなければ“拘束代”でもない“考え賃”ではないかと思うのである。
 いいかえると、 「問題がわからない」 という人は、端的にいって、“仕事”とはなにか、その基本さえ、わかっていない人が多い、ということになる。 なぜなら、ビジネスマンの仕事であれ、研究者の仕事であれ、あるいは、主婦の仕事であれ、およそ仕事と名のつくものは、問題の発見から始まるからなのである。

問題にもいろいろなものがある

 話はちょっと横道に入るが、 「問題」 とは、いったい、なにか、ということについてふれておこう。 というのは、わたしたちは、日常、なにげなく 「問題」 ということばを使っているが、これほど“あいまい”で、わかりにくいことばもないからだ。 ちょっと固い話になるかもしれないが、しばらくガマンをしてほしい。
 さいわい、いま手許に佐藤允一さんの 『問題の構造学』 ( ダイヤモンド社刊 )という本があるので、それを手がかりに話をすすめていこう。 佐藤さんによると、 「問題」 ということばには、つぎのような意味があるという。

わからないこと……………疑問・質問
困っていること……………困惑・悶着
変わっているこいと………異常・逸脱
達成すべきこいと…………課題・タスク
論議すべきこと……………議題・テーマ
意見が分かれること………争点・論点
さしさわりのあること……障害・支障
どうにもならないこと……拘束・不条理
などが、それだ。
 そのほかにも、たとえば、

あちらをたてればこちらが立たず……矛盾・対立
見通しがたたないこと…………………予測不可能
などが考えられる。 また、 「問題の人」 とか 「問題の会社」 という場合には、 「話題の」 とか 「例の」 ということだ。 さらには 「時間の問題」 とか 「金銭上の問題」 などといったときは、 「事柄」 といったことばに置きかえることができる。
 話はまたまた横道にそれるが、英語圏で 「問題」 というのは、どういうふうに表現されているのだろうか。 ためしに勝俣銓吉郎編 『和英大辞典』 をめくってみると、つぎのような例が出ている。
答えを求める問題 ・ a question, a problem
 ( 例 )与えられた問題、難問題、頭をひねる問題、数学の問題、問題に答える
研究などの問題 ・ a subject
 ( 例 )研究問題、大学卒業前の研究問題、まだだれも手につけていない問題
取り上げるべき問題 ・ a question, a problem, an issue, a case
 ( 例 )社会( 農村 )問題、失業問題、根本問題、微妙な問題、刻下の問題、枝葉の問題、緊急問題、未決問題、議論の多い問題、厄介な問題、長い間の問題、解決すべき問題、問題が起こる、問題が持ち上がる
物議 ・ public discussion( = Comment ), public criticism( = Censure )
 ( 例 )問題を起こす、問題になる、問題の人( 小説 )
疑問 ・ a question
 ( 例 )問題である、成功するかどうか問題である
事柄 ・ a matter, a question, an affair
 ( 例 )時間の問題、趣味の問題、金銭上の問題
悶着 ・ troublu
 ( 例 )問題が起こる、問題を起こす
といったぐあいになっている。
 辞書によっては、このほかに、

話題 ・ a topic
事件 ・ an affair
をあげているものもある。
 こうしたことばの使い方をみていると、 「問題」 というものの持つイメージを漠然とつかむことができる。 そして、日本語でいう 「問題」 のほうが、英語の 「プロブレム」 ということばよりも広い意味に使われていることがわかる。 それは別としても、英語圏の人たちの間では、
  「問題とは疑問に答えることである」
という 『ウェブスター辞典』 の定義が広く使われているようだ。
問題は、つぎの三つに分けて考える。

「ホワット」 としての問題
 これは、 「どんな問題があるのか」 とか、 「なにが問題なのか」 とか、あるいは 「なにを問題とするのか」 といった“問題づくり”のための問いである。
「ホワイ」 としての問題
 これは、 「なぜ、それを問題とするのか」 とか、 「どうして、それを問題として提起するのか」 とか、あるいは 「なんのために、その問題を解決するのか」 といった“課題づくり”のための問いである。
「ハウ」 としての問題
 これは、 「どうすれば、その問題が解決できるか」 とか、 「どんな解決案が考えられるのか」 とか、あるいは 「どんな解決法がベターであるのか」 といった“解決案づくり”のための問いである。

仕事は問題の発見・形成・解決

   「仕事とは“問題解決の行為”である」 といった。 そこで、つぎに 「どのような手順で問題を解決していくのか」 ということが問題になる。 つまり、仕事というものは、いくつの部分から成り立っているのか、ということだ。 が、それについては、いろいろな人たちが、さまざまなモデルを提唱している。 たとえば、表2は、その一例だが、これを見ても、まさに、論者の頭数だけ考え方があることがおわかりだろう。
 このように、問題解決の手順については、さまざまなモデルがあるわけだ。 それを、いくつの段階にわけるかについては、論者によってマチマチなのだ。 が、一般的にいって、問題解決のステップの数は多くなっていくようだ。 たとえば、文化人類学者・川喜田二郎さんが提唱された 「仕事=十二段階」 説やテコシーナが考案した 「ゼテティックス( 探求学 )=十八段階」 説というのがある。

表2 問題解決モデルの例
A.オズボーン J.E.デューイ J.G.メイソン M.プランク
1.問題描写
( PD )
2.問題解決
( PS )
1.問題を感じる
2.問題を明確にする
3.解決を思いつく
4.仮説を立てる
5.仮説を検討する
1.問題を見きわめる
2.事実の収集
3.アイデアを集める
4.問題をあたためる
5.アイデアを評価する
1.問題の明快な把握
2.解決方法の計画
3.計画の実行
4.検討
5.解決の一般化
土方 文一郎 茅野 健 上野 陽一 片方 善治
1.問題発見
2.問題形成
3.問題.交換
4.問題解決
1.問題の発見
2.目標の設定
3.情勢の判断
4.問題解決
1.一念発起
2.問題点の限定
3.解決法の決定
4.実施に移す順序
1.問題の提起
2.問題の分析
3.問題の解決行動
4.評価

 こうした考えに刺激されて、表3のような 「仕事=16段階」 説を考えてみた。

表3 問題解決は 「仕事」 の別名
~ 問題意識 ~
 
問題の発見 +― ①問題に気がつく 
 ②事実を確認する 
+― ③問題を提起する ←―― ※
課題の形成 +― ④問題の状況を調べる―+問題の構造化
 ⑤問題の背景を分析する
 ⑥問題の見取り図を描く―+
 ⑦目的を確認する―+共通の課題づくり
 ⑧情勢を判断する
+― ⑨課題を決める―+
課題の解決 +― ⑩構想計画をたてる―+実施計画の立案
 ⑪解決案を並べる
 ⑫解決案を選ぶ
 ⑬実施の手順を考える―+
 ⑭計画通りに実施する―+成果の評価
+― ⑮結果をチェックする―+
   ⑯つぎの課題を提起する ――→ ※

もちろん、これは一つの仮説にすぎないが、このモデルを、別の視点から整理してみると、つぎの3つの段階
( 1 )問題発見の段階( ①~③ )
( 2 )課題形成の段階( ④~⑨ )
( 3 )課題解決の段階( ⑩~⑮ )
になるのではないか、と思っている。
 もっとも、この中核になる部分のほかに、

( 4 )問題意識形成の段階( 0 )
( 5 )つぎの課題提起の段階( ⑮ )
を加えると、5段階説ということになるかもしれない。 以下、これら仕事=16段階説のうち、とくに大切な 「問題意識」 と 「問題発見」 の2つの段階について考えていくことにする。


2. 仕事は“問題の発見”から始まる

どんなときに“問題”と出合うか

 仕事というもの ― それが研究者の仕事であれ、ビジネスマンの仕事であれ、あるいは家庭の主婦の仕事であれ、およそ仕事と名のつくものは、まず 「取り組むべき課題とはなにか」 を見つけることから始まる。 つまり、もともと本来の意味での仕事は、

解決すべき課題とはなにか
達成すべき目標とはなにか
追求すべきテーマとはなにか
などを、自分で発見することから始まる、といってよい。
 しかし、現実の職場では、最初から、こうした純粋の形で問題を発見しているわけではない。 では、わたしたちは、どんな形で問題を発見し、それを仕事にしているのだろうか。 ごく原則的なことをいえば、ふつう、

上役からテーマを与えられる
先輩たちから課題を教わる
自分が問題にぶつかる
自分で問題を見つける
自分から問題をつくる
などといったケースが考えられる。
 このほかにもあるかもしれないが、①の 「与えられる問題」 や②の 「教わる問題」 の2つは、どちらかといえば、本来の意味での 「問題の発見」 ではない。 仕事のABCを覚えさせるために、上役や先輩たちが与えてくれる“宿題”とか、あるいは“練習問題”というべきものだろう。 この種の“課題”は、ふつう、新入社員や中途採用社員向けに出されることが多く、たいていの場合、 「答え」 が用意してあるからだ。
 しかし、少なくとも中堅クラス以上の人たちの場合には、右に列挙した問題のうち、③④⑤の問題 ― つまり、 「ぶっかったとき」 や、 「見つけたとき」 、それに 「つくったとき」 などが、正しい意味での 「問題の発見」 といえるのである。
 そこで、まず、わたしたちが問題にぶつかったとき、どんな形で、それを自分の問題としてとりこんでいるのか、そのへんのところをみていくことにしよう。
 わたしたちは、日常、職場や社会生活のなかで、いろいろな問題にぶっかる。 たとえば、

これまで経験したことのなかったような事柄に直面する
予想もしなかったような事態に見舞われる
知らないうちに、のっぴきならないような状況に追いこまれる
などといったことを、よく経験する。
 そして、そんなとき、わたしたちは、たとえば、 「こりゃ、大変だ」 「さて、困ったぞ」 「はて、弱つたな」 「えらいこっちや」 「どうもいかん」 「さて、どうしよう」 といったぐあいに“当惑”した表情をしたり、“困惑”した文句をつぶやくはずだ。 しかし、それも最初のうちで、やがて 「どうしようかな」 とか 「なんとかしなきや」 とか、あるいは 「なにか打つ手はないか」 と考え始めるものなのだ。
 また、わたしたちは、仕事をやっているとき、いろいろな問題を見つけることがある。 たとえば、

これまで見たことのないようなものを目にする
これまで聞いたことのないようなことを耳にする
これまで知らないようなことを知らされる
などといったことを、よく経験する。
 そして、そんなとき、わたしたちは、たとえば、 「おやつ、なんだろう」 「あれっ、変だな」 「はて、おかしいぞ」 「いっもと違うぞ」 「なにかありそうだ」 「どうも気になるな」 といったぐあいに、“疑問”を感じたり、“疑惑”を抱いたりするものだ。 そして、こうした素朴な“疑問”や“疑惑”から、取り組むべき課題が生まれたり、追求すべき研究テーマを発見することが多いのだ。
 このように、問題というものは、偶然にぶっかったり、ふと気がついたり、あるいは、探して見つけたとき、わたしたちの目の前にその姿をあらわしてくるのである。 しかし、状況によっては、 「問題をつくる」 こともある。 たとえば、現状ではどこを、どんなに探してみても、 「これ」 といった問題は見当たらない。 そのかぎりでは 「当社、別状なし」 といえる。 しかし、現状はよくても、これからの将来にかけて、ずっとよいという保証は、どこにもないのだ。
 そこで、 「が、しかし」 と問いをつくり、たとえば、

はたしてこのままでいいのだろうか
こうならなかったら、どうするか
もし、こうならなかったら、どうするか
といったぐあいに、新しい問いをつくっていくのだ。 「まさか」 と思っていたことが、 「まさに」 起こってくるのが、現実の世界なのである。

問題とは“感じとる”もの

 このように、わたしたちが、ふつう、問題と呼んでいるものには、

ぶっかる問題( ルーチンープロブレム )
見つける問題( ルックープロブレム )
創る問題( メイクープロブレム )
の3つがある、と考えていいだろう。 そして、ここでとりあげてみたいのは、②の 「見つける問題」 だ。 つまり、わたしたちは、どのようにして問題を見つけるのか、ということだ。
 職場にかぎらず、わたしたちが、ふっう 「問題を発見する」 という場合、大きく分けて、

偶然、その問題が見つかる
カンで問題を探りあてる
分析の手法を使って問題を発見する
などといったケースが考えられる。
 たしかに、まったくヒョンなことから重要な問題が見つかったり、研究テーマがとび出してきたりすることがある。 また 「なんとなくおかしいなあ」 と思いながら探っていたら、そこに重大な問題がひそんでいた、などといったことも、日常よく経験することだ。 その点からすれば、③の 「分析の手法を使って問題を発見する」 というやり方は、 「偶然」 や 「カン」 による方法とは、一見、関係がなさそうに思われるかもしれない。
 しかし、この“偶然”も“カン”も“分析”も問題のつかまえ方からいうと、共通性がある。 というのは、たとえ、“分析の手法”を使って問題を発見するといっても、ただヤミクモに分析するわけではない。 「このへんに問題がありそうだ」 と“見当”をつけてから分析にとりかかるのが、ふっうのやり方だろう。
 つまり、ここでいう 「見当をつける」 とは、一種の 「カン」 みたいなものだ。 それは、ながい間つちかわれてきた経験から生まれてきたものであって、理論や知識から導き出された“理屈”ではないはずだ。
 やや話が理屈っぽくなったが、こうしてみると、職場の問題をつかまえる場合、大切なことがいくつかあることに気がつく。
 第一は、わたしたちが、問題に対する感度を、どの程度、持っているか、ということだ。 あるいは、“豊かな感受性”を持っているかどうか、といいかえてもよいだろう。 というのは、この“感度”がなければ、たとえ問題とすべき現象が目の前で起こっていても、気がつかないからだ。 ひどいときには、自分が問題の渦中にあることすらわからないことにもなりかねないのだ。
 「問題の発見」 などというと、なにかむずかしいことをやることのように聞こえる。 そのせいか、なにか高度の知識や特殊な技術を身につけておかなければ、問題の発見などできないと思っている人がいるようだ。 あるいは、俗にいう“アタマのいい人”でないと、問題をつかまえることができないのではないかと、それこそアタマから信じている人がいるかもしれない。 たしかに、問題によっては、アタマでつくるものもある。 たとえば研究者が、学問上の 「仮設」 をたてる場合には、アタマでひねり出すようだ。
 しかし、現実の世界にひそんでいる問題は、どんなにアタマで考えてみても見つけることはできない。 それは 「ハダで感じとる」 しか方法がないからだ。 ややむずかしい言い方をすると、問題というものは“理性”でつかまえるのではなく、むしろ“感性”でキャッチするものなのだ。 ひらたくいえば、だれでも“本能”として持っている 「センス」 とか 「フィーリング」 でつかまえることができるのである。
 ちなみに、ここでいう“問題に対する感度”というのは、なにか見慣れないものを見たり、触ったりしたときに、たとえば、
「ハッ」 とする
「アラ」 「マア」 「ヘエ」 と驚く
「オヤ」 「エー」 「ソウ」 と感心する
といったぐあいに、ソトからの刺激( 情報 )にすぐに反応することだ。
 あるいは、人の話を聞いたり、新聞や雑誌などを読んでいるときに、たとえば、

「ピーン」 とくる
「フト」 気がつく
「チカチカ」 とひらめく
といった“カンの働き”を指している。 「ソトからの情報に刺激されて、心の中に新しい発想が生まれること」 といってよいかもしれない。
 ところが、困ったことに、世のなかには“感受性の豊かな人”と、“感度のにぶい人”がいるものだ。 その“感度”の良し悪しが生まれっきのものなのかどうかはわからない。 しかし、職場の中をシーッと観察していると、 「問題を感じない人」 がいるものだ。 どんな人が、問題に対して鈍感なのか、参考のために表4にまとめておいたので、自分にそういう点がないかどうかチェックしてみてほしい。

問題を“感じる”、“思う”、“考える”

 このように“問題”というものは 「頭で考える」 ものではなく、 「身体で感じる」 ものなのだ。
表4 問題を感じない人
1. 「いいじゃないの、しあわせならば」 と、,現状に満足している人
2. 「むかしはよかった」 と、過去の思い出ばかりなつかしむ人
3. 「オレの若い頃は……」 と、過去を自慢したがる人
4. 「世が世なれば、オレだっていまごろは」 と、過去の栄光にしがみついている人
5. 「あしたはあしたの風が吹く」 と、あすへの希望を抱かない人
6. 「ヨソはヨソ」 と、オモテの風に吹かれようとはしない人
7. 「そんなのおれには関係ないよ」 と、自分のまわりに関心を持ととしない人
8. 「ソトヘ出たってカゼをひくばかり」 と、自分のカラにとじこもっている人
9. 「どうせオイラは日陰の身」 と、外部とは接触しようとはしない人
10.ふたことめには 「忙しい」 といいながら、社内をとびまわっている人
11.スケジュール表があくのがこわくて、どんどん仕事をつくっている人
12.“忙しい”ことを、スポーツのようにたのしんでいる人
13.いつも自分の席で新聞ばかり読んで、ヒマをもてあましている人
14. 「自分の実感でものをいってもらっちや困るね」 と、実感をバカにしている人
15. 「理論が正しいのであって、現実のほうが間違っている」 と、理論しか信じない人
16. 「おれがいうのだから絶対にまちがいないよ」 と、自分の経験にあぐらをかく人
17. 「オレの見る田こまちがいない」 と、自分の実感しか信じない人
18. 「そう、この本に書いてあるんだから」 と、本に書いてあることしか信じない人
19. 「NHK( or 朝日新聞 )によるとだナ」 と、いつも新聞やテレビのいうことしか信じない人
20. 「それが常識というものだよ」 と、いつも常識を盲信している人
21. 「前例はどうなっとるかネ」 と、いつも前例にとらわれる人
22. 「これが、わが社の慣例だよ」 と、いつも慣例にしばられている人
23. 「ち々んと手続きをふんでもらわなくては……」 と、手続きを重視する人
24. 「例外を認めると。 あとが……」 と、例外を認めたがらない人
25. 「他社ではどうやっているのか」 と、いつもヨソのことを気にする人
26. 「どうせやっても仕方がない」 と、最初からあきらめている人
27. 「オレの言うことに間違いない」 と、他人のいうことに耳をかさない人
28. 「オレの見る目に狂いはない」 と、自分の見る目しか信じない人
29. 「しょせん、人生はなるようにしかならないよ」 と、人生を否定的に考える人
30. 「どうせうまくいきっこないよ」 と、ものごとを悲観的に考える人
31. 「できない」 という言い訳けをする人
32. 「やらない」 口実をすぐもうける人
33.失敗を他人のせいにする人
34. 「できない」 理由を人のせいにする人
35.やる前から 「失敗したらどうしよう」 と、考える人
36.自分の誤りを素直に認めない人
37.人の意見にケチばかりつける人
38.自分の代案を出そうとはしない人
39. 「可能性」 のほうに自分をかけない人
40.すぐに 「限界」 を指摘したがる人
41.もの知りをハナにかけている人
42.結果しか問題にしない人
43.ペシミストである人
44.ムダを認めない人
45.役に立つことしかしない人
46.プラスになることしかしない人
47.トクになることしかしない人
48.頭のよさをハナにかけている人
49.働くしか能のない人
50.あそびを知らない人
51.なにごとにも興味を示さない人
52.なにを見聞しても驚かない人
53.ロマンや夢を持たない人
54.なにをやっても感動しない人
55.他人の経験から学べない人

「理性でとらえる」 というよりは、どちらかといえば 「感性でつかまえる」 ものなのだ。 だから、一般的にいって、頭デッカチで、感度のにぶい人は、問題を見つけるのが不得意のようだ。
 そこで、ひとつ問題が出てくる。 それは、 「問題を感じた」 からといって、それが、そのままでは 「問題を発見した」 ことにはならないということだ。 少なくとも自分が感じた問題が、みんなで解決すべき問題 ― つまり“共通の課題”にはならないということだ。 逆にいうと、自分が感じとった問題を仕事の課題に高めていくためには、いくつかの段階を経なければならないのである。
 ちなみに、自身の“問題発見”の経験によると、こんなぐあいになるようだ。
 まず、自分の身体( 五感 )を通して、なにか問題と感じたとする。 身体で感じたものは、ひとまず心のなかに取りこまれ、イメージとして記憶している過去の経験と照合する。 たとえば、

こんなことは、いつか、どこかで経験したことがあるか
どこかで見たことがあるか
だれかに聞いたことがあるか
なにかで読んだことがあるか
といったぐあいに、過去の経験をたどりながら、問題のイメージを描くのである。
 つぎに、問題と思われるイメージを取り出し、頭のなかで“ことば”におきかえる。 そして、問題を位置づけたり、関係づけたりしながら、“問題”の全体像を組み立てていく ― といったプロセスをたどっているようだ。
 このように、ひとくちに“問題の発見”といっても、断片的に問題と感じたものを身体のなかに取りこみ、心のなかでイメージとして描き、それを頭のなかで“問題”として再構成していく、といった作業を行なっているようだ。 つまり、 「感じる」 「思う」 「考える」 といった段階を経ながら、ひとつの問題として形づくられていくのではないだろうか。
 ややむずかしい言い方をすると、

問題を身体で 「感じる」 段階( = 「感覚」 のレベル )
問題を心の中で 「思う」 段階( = 「知覚」 のレベル )
問題を頭の中で 「考える」 段階( = 「認識」 のレベル )
といった段階を経ているのである。
 とはいっても、わかりにくいので、多少、重複するが、“問題との出会い”から説明してみよう。
 職場の問題であれ、家庭の問題であれ、あるいは社会の問題であれ、およそ問題を発見する場合、わたしたちは、最初から 「これが問題だ!」 といったぐあいに、はっきりとつかまえているわけではない。 直接、問題にぶっかる場合や問題を作る場合は別だが、問題を見つけるといっても、初めのうちは、 「なんとなく問題を感じている」 のが、ふつうだ。 たとえば、

なんとなくイヤーだなあ
なんとなくやりにくいなあ
いまひとつシックリこないなあ
といった“感じ”を抱くものだ。 この段階では、ふっう、 「なにが問題なのか」 とか、 「どんな問題なのか」 とか、あるいは 「どこに問題があるのか」 といったことははっきりしていない。 “問題”そのものが漠然としていて、ただ 「なんとなくいつもと違うなあ」 といった“違和感”程度のものだ。 つまり、 「なんとなく身体でボンヤリと感じているだけ」 で、まだ問題として“意識”にのぼってきてはいない、とみていいだろう。
 ところが、もう少し“問題”がはっきりした形をとってくると、問題の受けとめ方が変わってくる。 たとえば、仕事をしていて、

なんだか変だぞ
なんだかおかしいぞ
なにかありそうだぞ
といった“思い”を抱くようになる。
 この段階になると、 「なにか問題がありそうだ」 と、“問題”を、かなりはっきりとつかみかけている。 “感じ”の段階では、点在している問題を、バラバラに感じているにすぎない。 しかし、この“思い”の段階になると、点在している問題を、ひとつのまとまりとしてつかまえているといえる。 しかし、 「どんな問題なのか」 といった問題の種類はわからない。 また、 「どこに問題がひそんでいるのか」 、問題の所在をつかんでいないのだ。 ただ 「なにか問題がありそうだ」 といった“疑惑”や“疑問”を持ち始めていることはたしかである。 つまり、この段階でも 「心のなかで問題を思っているだけ」 で、それほど“問題”を自覚しているわけではないのである。
 このように、わたしたちは、“問題”との出会いから“問題”を意識のなかにとりこむまでには、 「問題を感じる」 とか 「問題と思う」 といった、いわば“意識以前”の段階があると考えてよい。 ここでは、意識以前の状態を、かりに 「問題感情」 と呼ぶことにする。


3. 問題の発見から課題の提起へ

問題を“事実”を通してとらえなおす

 このようにして芽生えた“問題感情”を土台にして、その上に“問題”が形成されることになるわけだ。 しかし、この“問題感情”が、ひとりでに大きく成長して“問題”を形づくるわけではない。 この“問題感情”を“問題”として提起するまでには、いくつかの手続きをふまなければならないのである。
 手続きの第一は、いま身体で感じている問題や心の中で思っている問題を“自分の問題”として引き受けるかどうか、ということだ。 ひらたくいえば、いま“問題と感じているもの”や“問題と思っているもの”に本気で取り組むかどうかを決断することだ。 なぜ、決断することが大切なのだろうか。 それは、一つには、“自分の問題”としてはっきり自覚しないと、“問題感情”は意識のレベルにのぼってこないからだ。 つまり、問題を感じたり思っているだけでは、意識のなかに問題として定着しないからなのである。
 “決断”する第二の理由は、切実な問題として意識しないと、それが“仕事” ― つまり問題解決の行為へとつながってこないからだ。 妙な言い方だが、“問題感情”が生まれたからといって、すべて“自分の問題”として引き受け、“問題意識”にまで育てなければならないことはない。 “問題感情”のなかには、とるに足らないものもあれば、時間がたてば、ひとりでに解消してしまうものもある。
 また、自分の問題として引き受けなくても、たとえば“不平”や“不満”の形で自分のなかに囲っていてもかまわない。 あるいは、だれか他の人に頼んで、自分の代わりに解決してもらっても、いっこうに差しつかえないわけだ。 ただ、自分にとって切実な問題として引き受けないと、仕事の“おもしろさ”や“たのしさ、それに“よろこび”を味わう、せっかくのチャンスをみすみすなくしてしまうだけのことなのである。
 いま、自分の問題として引き受ける、と決心したとする。 そこで、第二の手続きとして、やるべきことは“問題と感じているもの”や“問題と思っているもの”を、事実を通して、きちんとつかみなおすことだ。 そうしないと、たとえば、

( 1 )なにが問題であるのか
( 2 )なにを問題とするのか
( 3 )なぜ、問題とするのか
といった“問題の全体像”がはっきりとつかめないからだ。 もっと正確にいうと、ただ身体で問題を感じたり、心の中で問題と思っていても、それが、ほんとうに取り組むべき問題であるかどうか、わからないからなのである。
 逆にいうと、身体で感じたり、心の中で思っていても、正確な意味での問題とはいえない。 それを、事実を通してきちんととらえなおさないと、問題として、わたしたちの前にたち表われてこないのだ。 ましてやチームで問題を解決しようという場合には、自分だけで問題と感じたり思ったりしているだけでは、共通の問題としてみんなで分かち持つことはできないのである。
 では、具体的には、どうやって問題をおさえていったらよいのだろうか。 そのためには、いま自分が問題と感じているものや問題と思っていることが、

どこで起こっているのか
どの分野( 領域、段階、地域 )で発生しているのか
どんな形であらわれているのか
それは、どの程度の問題なのか
その広がりは、どの程度なのか
その深さは、どの程度なのか
その複雑さは、どの程度なのか
その問題は、いつから起こっているのか
それは、新しい( 初めての、未経験の )問題なのか
まえにも、それと似た問題が起こったことがあるか
将来、また起こりうる問題なのか
それは、自分の身のまわりだけで起こっているのか
ほかのところで同じような問題が起こっているのか
なぜ、そういった問題が起こるのか
だれにとって問題なのか
解決の見通しは、どうなのか
放っておくと、どうなるのか
自分ひとりで解決できるか
などといったぐあいに、一つ一つチェックをしながら、問題のイメージをはっきりと描いていくのである

提起する問題を検討する

 このようにして、自分が、いま問題と感じているものや問題と思っていることを、現実に即してつかみとる作業を通して、 「なにが問題なのか」 がはっきりしていく。 しかし、これだけでは、問題が十分に意識されたとはいいがたい。 ややむずかしい言いかたをすると、こうした事実を通して問題をとらえなおすことによって、

( 1 )なにが問題であるのか
という″事象”は明確になったのだが、

( 2 )なにを問題とするのか
といった“対象”がはっきりしないからだ。 つまり、自分にとって 「そもそも問題とはなにか」 ということが、きちんと自覚されてはいないからだ。 “問題の状況”はわかっていても、なにが重要な問題なのかが、頭の中に描かれていないのである。
 そこで、第三の手続きとして、つぎのようことをチェックしてみる必要がある。

この問題は、これまでにも取り上げられたことがあるのか
そのときは、どんな形で取り上げられたのか
その結末は、どうなったのか
もし、取り上げられなかったとしたら、それは、どんな理由からなのか
その種の問題がなかったのか
その種の問題が起こっていても、だれも気がっかなかったのか
気がついていても、だれも問題として提出しなかったのか
などが、その主なチェックポイントである。
 そして、できたら、

( 3 )なぜ、それを問題にするのか
を、自分なりにはっきりさせておきたいのだ。 具体的には、

その問題を、なぜ、いま取り上げなければならないのか
いま取り上げないと、どんなことになるのか
いま手をうっておくと、どんなプラスがあるのか
などといったことをチェックしておくのである。
 それにしても、なぜ、こんなに面倒くさいことをするのか。 それは、発見した問題を、“自分ひとりのもの”としてではなく、“みんなのもの”として共有するためだ。 日常よく経験することだが、Aさんにとって“問題”であっても、それがBさんにとっては、かならずしも“問題”であるとはかぎらない、ということがしばしば起こってくるからだ。
 とはいっても、Bさんが意地悪をして、Aさんが提出した問題に対して無関心を装っているわけではない。 いくら重大な問題であっても、“事実”にもとづいて提出しないと、聞いている人には、事の重大さがわかりにくいのだ。 ヘタをすると、自分ひとりの、“不平・不満”や“私憤”を、あたかも“みんなの問題”や“公憤”であるかのようにみせているのではないか、とさえ思われるのである。
 このようにして、問題のデッサンが終わったら、こんどは、“ことば”ではっきりと定義してみるのだ。 これが、第四の手続きだ。 これまでイメージの形でアタマのなかにあった問題を、ことばの形で、きちんと定着させるのだ。
 なぜ、ことばで表現しなければならないのか。 一つには、“問題感情”という個人の体験は、ことばという社会で共有している道具でおさえておかないと、みんなの問題にならないからなのだ。
 もう一つの理由は、自分の感じたことや思ったことを表現するのに、ことばは不便な道具だが、それでもきちんと表現しておかないと、どこかへ消えていってしまうからだ。 というよりも、問題感情というものは、ことばで定義しないかぎり、自分のものにならないのである。 ちなみに、 「問題をきちんと定義することができれば、問題はなかば解決されたのも同じことだ」 ( デューイ )ということばもあるくらいなのである。
 ただ、問題をことばの形できちんと定義する場合、注意しておきたいことがいくつかある。
 それは、問題はできるだけ具体的に表現しておくことだ。 逆にいうと、 「OO問題」 といった形で表現しないことだ。 たとえば、 「コミュニケーションの問題」 とか 「リーダーシップの問題」 とか、あるいは 「システム問題」 といった形にはしないことである。 というのは、たとえば 「コミュニケーションの問題」 と、ひとくちにいっても、その人は、コミュニケーションがどうなるのを問題とみなしているかがわからない。 また、どんな事例を見聞したり経験して、コミュニケーションの問題と思ったのかがわかりにくいからだ。 それだけではない、世のなかには、 「○○問題」 という一般的な問題などあるはずがない。 問題というのは、つねに個別的で具体的なものだからである。

組織のニーズに照らしてチェックする

 問題を発見してから問題を提起するまでには、これまで述べたように、

( 1 )なにが問題であるのか
( 2 )なにを問題にするのか
( 3 )なぜ、問題にするのか
といったことを、自分なりに検討しておく。 なぜ、こうした面倒な手続きをふまなければならないのか。 それは、ひとつには、“わたしの問題”と“あなたの問題”とをつきあわせ、“みんなの問題”にまで高めていくためだ。 もう一つには、自分なりの“問題の見取り図”が出来上がるので、その後の問題発見に役立てるためでもある。
 しかし、これまでの作業で、問題提起の準備が終わったわけではない。 しつこいようだが、問題を、みんなで共通するためには、もう少し準備が要るのだ。 自分が見つけた問題を、自分流のやり方で問題の全貌をスケッチして、みんなの前に提出したとする。 しかし、それが、職場に共通の問題として取り上げられるとはかぎらない。 ましてや、会社全体の問題になるという保証など、どこにもないのだ。 なかには、苦労したわりには努力が報いられない、と嘆く人がいるかもしれない。
 しかし、そのためには別の仕掛けがいる。 それは、その問題を解決することが、どんなプラスが生まれるのか、はたして企業や役所、それに団体など組織にとって、どんな意味があるのかをチェックしてみる必要がある。 というのは、“企業は営利を追求する場だ”その問題が、たとえば学問的にみてどんなに重要であっても、それが企業にとってプラスになることしか問題として取 り上げないのである。
 そこで、自分が問題と考えているものを、いくつか取り出してみる。 まず、

どれが、いちばん重要な“自分の問題”と思うのか
どれが、緊急を要する問題だと思うのか
どれが、企業にとってプラスになると思うのか
といったぐあいに、まず問題をしぼる。 そして、その問題の持つ意味の重さをチェックしてみるのだ。 たとえば、

それは、だれにとって問題なのか
職場にとってはどうなのか
会社にとってはどうなのか
業界にとってはどうなのか
消費者にとってはどうなのか
地域の人たちにとってはどうなのか
日本の経済にとってはどyなのか
といったぐあいに、問題の広がりや深さ、それに重さをチェックしてみるのだ。
 しかし、組織というものは、それが企業であれ、役所であれ、あるいは団体であれ、組織にとってプラスになりそうなことしか、問題として取り上げない。 とくに企業の場合、経済性の論理で動いているので、その問題がたとえ社会的にみて意義があっても、企業にとってプラスにならないかぎり無視されてしまうのだ。 「社会性」 よりも 「企業性」 が優先されるのである。
 そこで、自分が問題と思うものを、企業の物差しでチェックしなおしてみるのだ。 たとえば、それは、

企業の理念にかなっているか
企業の方針にかなっているか
企業の目標達成にプラスになるか
企業の利益につながるか
株主の配当につながるか
従業員の福祉に役立つか
労働組合にとってもプラスになるか
といったぐあいに、まずポイントをおさえてみる。 そして、つぎに、その問題の持っている意味を、もう少し具体的に検討していくのだ。 たとえば、
その問題が解決すると、どうなるのか
その問題が解決しないと、どうなるのか
だれが、いちばん利益を得るか
だれとだれが喜ぶか
だれが、いちばん被害を受けるか
だれとだれが困るか
損にも得にもならないのはだれか
反対や抵抗しそうなのは、だれか
賛成や支持しそうなのは、だれか
といったぐあいにつめてみるのである。
 こうした手続きをとったあとに、

( 1 )どれが、いま、われわれが解決すべき重要な問題なのか
( 2 )なぜ、それをみんなの課題として取り上げなければならないのか
といったぐあいに、まとめて提出すればいいのである。

“課題”を“目標”に置きかえる

 ついでに、もう一つ、つけ加えると、提起された共通の課題を解決するためには、当然、

自分の“職場”としては、なにをやるべきか
自分“個人”としては、なにをやらねばならないか
といったことまで考えておかなければならないのである。
 ところが、ここでやっかいな問題が起こってくる。 それは“問題”を発見し、それを“課題”として設定したとしても、“課題”を“目標”に置きかえないと、問題解決の行動へは結びつかない、ということだ。 あるいは、どんなにすぐれた“目的”があったとしても、それを“目標”に置きかえないと、“やる気”は出てこない、といいかえてもよい。
 ちなみに、教育学の教えるところによると、ビジネスマンの仕事であれ、学生の勉強であれ、つぎの4つの条件が備わらないと、“やる気”は出てこない、という。

[ 1 ]達成すべき目標がはっきりしていること
[ 2 ]目標と自分の置かれている状況とのズレがはっきりしていること
[ 3 ]そのズレを埋めていくステップがわかっていること
[ 4 ]自分が立てた目標にむかって着実にすすんでいることが実感できること
などが、それである。 つまり、わたしたち人間は“目的”だけでは動かない。 “目標”に置きかえて初めて行動することができる、というわけである。
 そこで、“問題の発見”から“課題の提起” へ、そして“目標の設定”までの過程を、やや図式的に整理しなおすと、つぎのようになる。

[ 1 ] 「目的意識」 を持つことで、 「問題意識」 が生まれる
[ 2 ] 「問題意識」 を持つことで、 「問題」 を発見することができる
( 「なにが、問題なのか」 を見つけることができる )
[ 3 ] 「役割意識」 を持つことで、発見した 「問題」 を 「課題」 としてつくりかえることができる
( 「なにを問題とするか」 「どれを課題とすべきか」 「なぜ、課題として取り上げねばならないのか」 を設定することができる )
[ 4 ] 「責任意識」 を持つことで、解決すべき 「課題」 を、達成すべき 「目標」 に置きかえることができる
( 「なにを、いつまでに、どのような方法で解決したらよいか」 「自分はなにをやるべきか」 「自分には、なにができるか」 などを、はっきりとつかむことができる )
―― というのが、個人サイドからみた“問題の発見”から“問題の解決”にいたるまでのスジミチなのである。


 これからの、わたしたちは“お手本のない時代”を生きていかなければならない。 では、“お手本のない時代”の自己啓発法として、どんなことが考えられるか。 だれにも簡単にできることは、 「勉強は学校でするもの」 といった考えを捨てることだ。
 日本の社会では、“勉強”というと、すぐに 「学校」 を連想しがちだ。 そのせいか、ビジネスマンになっても、

夜学や留学をしないと勉強できない
教科書がないと勉強できない
先生がいないと勉強できない
と考えやすい。 そして、せっかく 「勉強したい」 と思っても、“時間”がないとか、“オカネ”がないとか、あるいは会社に留学制度がないといった理由で、勉学をあきらめてしまう人が多いのだ。
 しかし、そうした考えは 「勉強は学校でするもの」 といった先入観からきている。 あるいは 「勉強とは“受験勉強”の手段である」 といった偏見によるものだ。 ビジネスマンにかぎらず、社会人の勉強というのは、

自分の時間と自分のオカネを使ってやるものであること
「ヒマなし、カネなし、先生なし」 というのが、ふっうであること
“現実の世界”を教科書にし、“経験”を師としてやるべきこと
と考えている。 なかでも大切なIのは、現実を教科書にし、経験を師として、自分を高めていくことだ。 なぜなら、わたしたちが探している“問題”は教科書のなかにはないし、わたしたちが求めている“答え”も、本には書いてないからだ。
 では、具体的には、どうしたらよいか。 さしあたっては、 「本を読んで考える」 方式から 「現実を読んで考える」 方式へ切りかえることだ。 たとえば、

( 1 ) 「見て考える」 こと( 「見学」 )
( 2 ) 「聞いて考える」 こと( 「耳学問」 )
( 3 ) 「経験を通して考える」 こと( 「体験学習」 )
といった“学び”の方式を確立することだ。
 そういえば、先日、ある先輩から、哲学者・西田幾太郎さんは、経験を自分のものにするために 「読・書・考」 を提唱しておられたことを教わった。 その先輩の解説によると、

異質の経験は“読む”ことによって、
自分の経験は“書く”ことによって、
それぞれ定着する。 その定着したものを読み比べることによって、

新しい思想の創造を考えよ
ということらしい。 ちなみに、ここでいう 「新しい思想の創造」 どは、新しい 「知恵」 でもいいし、 「アイデア」 や 「ものの考え方」 でもいいのだろう。
 それはさておき、この話を聞いたとき、お手本のない時代の自己啓発法は、この西田流の 「読・書・考」 につきている、と思った。 ただ、西田さんは“書斉派”の学究の徒だ。 だから、この“読・書・考”でいいのかもしれない。 しかし、あえていえば、わたしたちビジネスマンは“野外派”の実務家だ。 なにより“実践”が優先する。
 とすると、“読・書・考”のほかに、もう一つ 「行」 をつけ加えて、 「読・書・考・行」 としたほうがいいのではないのかと思うのだが……。